昭和42年11月4日 夜の御理解


 今日テレビで芸能人の運動会をやっておりましたですね。やっておる。その芸能人の人達はまぁ楽しそうであり、面白そうですけれども、見ておるほうとしてはなんの感動も伝わって参りませんですね。はぁあれは有名芸能人だと。誰がでとる、あれがでとると言うだけであって、その感動が伝わってくるほどのものではないこと。それはやっておる者がただ、面白うおかしゅう、面白かろう、楽しかろうというだけでございますですね。矢っ張りこれはあのなんともうしますか、オリンピックならオリンピック、あれを見ておりますとですね、ならそのお互いの技量を競うております。一生懸命の姿と言うものは、なんとはなしに矢張り感動が伝わって参りますもんね。こちらへ。あの芸能人は自分の歌なら歌、踊りなら踊りに矢っ張りあのう打ち込んでの舞台の姿が一番見ておるものをして感動し、又感動を与える事が出来ると言うことをま、感じるわけでございますね。これはあの私達の場合でも同じ事が云えると思うですね。例えて私は申しますならば、あの私、久富正義さんがいつか、あのトラックに乗ってはんてん姿であのやってきた時に、いやぁあんたもう背広姿より一番似合うばいというて、本当に感動いたしましたですね。おそらく久富繁雄さんあたりゃ、勇さんあたりがもうそれこそあの泥にまみれていわば、あの百姓の仕事に打ち込んでおられる姿が一番美しいじゃないかと思いますですね。
 それぞれのそのいわばこれが自分の命だとこう言うようなものに打ち込んでおる時、人間は一番美しいのであり、同時に人に感動を与え、感動を呼ばないはずがありません。ですから私は思うんですね、果たしてならお互いがですね、その日々のその自分の生命であるところの御用に対して果たしてどのような態度で望んでおるだろうか、はぁ今日も又例えばごぼうを掘らんならん。例えば久富さんあたりが言よんなさったとしたらどうだろう。はぁこりゃ又畑ん草取りいかにゃならん。今日は又例えば商売人の人がです、毎日同じ繰り返し、売ったり買ったりそのことにです、私は例えばなら芸能人が舞台に立っておるときのような一生懸命のものがなかったら、それは何も与えませんです。はぁ百姓ち言う仕事はきつかろうのと言うくらいのもんだけしか与えないでしょう。ほんに商売ちゃほんと忙しいこつじゃあるね。人ん休んどる時に一生懸命やらにゃん、商売人にどんなすもんじゃなか、ち言う御たるふうな者しかおそらく与えないだろうと思うね。ましてや自分自身がです、もう百姓てんなんてん孫子の末までさせるもんじゃございませんよと、もう商売てんなんてんな、もう私一代限りだといったような考え方で商売が繁昌するはずもない。又人に感動与えるはずもない。又後を守ってくれなければならん。ついていかなければならない子供達にそれを与えることすら出来ないと私は思うです。この辺のところがですね、私は信心をもってするとそこがほんとにおかげを頂いていけれるとこう思うのです。 例えて言うならば女の方達がですよ、勝手なら勝手、お洗濯ならお洗濯、お炊事ならお炊事に一生懸命、然もそれが楽しそうにこう、例えばなされていきよるとするならです、もう本当にもう朝から晩までおさんどんというような愚痴はでらないと思うですね。そしてそれが何か与えないはずがないです。お母さん頂きます、お母さん有り難うといったようなものがです、子供達に与えないはずがないです。もう自分がせんならんけんしよる。もう汚れけえちから、もう毎日毎日洗濯は私はおおごつよ。ちいうてから言うような事はですね、私はそれは感動も何も呼ばない。確かにそうなんです。自分の仕事にほれこんで、その事に一生懸命になっておる姿というものは美しい人の感動を呼ぶ。
 今日午後から、先日から私お話を致しましたがね、ちょっと仕事のまぁ都合じゃない、自分の都合でしょうけれども、もう本当に真面目な人でしたけれど、ちょっと間違いがありましてですね、ここ一週間あまり位、いわば行方不明になっっとったです。ここで神前結婚致しまして、熱心に信心しておりましたけれども、いっとはなしに信心が薄らいで、とてもお父さんは有名は教育者です、もう本当にその教育者が自分の子供を自分の思うとおりに育てたと言うほどにすばらしく育っておったんですけれども、さぁ二十五になり三十になってくるとそんなわけには参りません。あれだけ真面目な人がどうしてと言うような事になる。お願いをして、おかげで東京からその便りがあり、迎えに行き、今日おかげで帰って参りました御礼に親子六人連れで御礼にでて参り、お婆ちゃんも一緒にお礼に出て参りました。時に私はその方達にまぁもうしましたことでございます。例えば商売人がですね、今時はそんなことはございませんけれども、ま、言葉をもってそれを表現するならです、一銭二銭の例えば商いばっかりで、もうちんちろまいしとらんならん。もう儲けもなかつにもうもうごげんちんちろまいしなならんというて不足を言うようなことではね、御商売は繁昌しません。今時でいうならば、もう百円二百円の商いだけじゃ、もうだちゃあきませんよと。それはどんなにじたばたしとってもだめだと。よしそれはダメであってもです、そんならその商売がはじめの時にそれこそ冷やかしだけでもよい。一銭二銭のお客さんでも良い。とにかく店に冷やかしに来てさえもろきゃ有り難かったという時代があろうが、はぁこのお客さんはもうかる、このお客さんはたいそう買うて下さる、と言うのでなくて一銭二銭のお客さんでもです、もう忙しかばっかりというような事です。事ではおかげにならん。例えて言うならばお便所に行きたいと思うとる。ところがさぁあたり近所に便所もない。そこにお便所を発見してお便所に飛び込んだときの有り難さ、もうそれこそああ良かったというのである。お水が欲しい。与えられる水は一滴もない。もう喉はからからというような時にです、いっぱいの清水を与えられた。もうその時のもうそれこそ生き返ったような喜び、そういうです、私はその感動と言ったようなものがね、そういう喜びというものがです、私はその感動といったようなものがね、そういう喜びというものがです、いつも心の中に頂けれる稽古が信心なんだ。ああた方が結婚さしてもらてから、ここで誓いの分を読まれた時にはどうであったか、あの時のいわゆる感動と言うものをいわば持ち続けると言うことは多難にしても、それをその日その日に頂いて行くというものが信心の稽古なのだ。本当に一銭二銭のお客さんも又有り難いのである。日頃はなんでもないお通じのおかげを頂いておると言うことはもう健康のしるしるである。
 お互いがはじめのうちを忘れなければ結構であると金光様は仰っておられる。はじめの間、御信心を始める。初めて聞くお話、本当にそれを行ずることも又楽しい。そこには神様の働きを生き生きと感じる事も出来るように、おかげが見えてくる。はぁ信心ちゃ有り難いものだ。有り難いものだ。あの時を忘れなかったら信心は有り難いのだけれども、さぁ自分の願った事が右になったり左になったりしてくると神様もおろそかになってくる。薄いものになってくる。希薄なものになってくる。拝だっちゃ拝まんでんといったような事にまでなってくる。信心とはね、それを私は育てていくところの修行が信心だと思う。今日のわたし、その芸能人の体育大会を見せて頂きよってからです、なんの伝わってくるものも感動も何もないというのは、いわゆる畑違いの事をしておるからだとこう思う。矢張りあれはそのスポーツ家達がです、その運動に一生懸命の技を競うておるときのものは、それは名を知らなくても、名前を知らなくても、見とってこちらに、いわゆるすばらしい感動が伝わってくる。そんならその芸能人が再び舞台の上に立ったらみんなに矢張り感動を与えられるものをそれぞれにもっておるのだけれども、それが運動会では何も与えることが出来ない。それから云うても、私共の日常生活、何事にも信心になれよ。この方の行は火や水の行ではない。家業の行ぞと仰る、その自分の生命あるところの家業にです、それをおろそかにせずです、それを怠慢堕落するのではなくてです、その事にこれは打ち込ませて頂く、その一生懸命の姿こそがです、神様を感動させることが出来る、神様を御喜ばせ申し上げることが出来る。又は人としてその百姓姿なら百姓姿に感動を与える事が出来る。こげなきつか仕事、こげな算盤にあわん仕事はなか、もう子供にどんさせるものじゃないといったような内容で、そのことが如何に例えば充実した神様の働きがあっておっても、一日中ほんとにその野良仕事に終わっておってもこれは感動も何ものも与えることは出来ないだろうとこう思う。
 私共の幸せというのは自分のその仕事に本当に真剣に打ち込めれる時だと思う。人に感動を与える、与えないは別としてそこんところをです、私共は信心になっていかなければならないとこう思う。その信心にならせて頂くと言うのはどういうことかというと、いわゆるさらな心で一番はじめの時を忘れずにとそういう心なのである。御商売を初めて一銭二銭のお客さんでも有り難かった。いや冷やかしだけでも寄ってもらやなんとはなしに有り難かった。それがもう本当に忙しゅうて、忙しゅうて一銭二銭のお客さんばっかりで儲けもなにもなか。こうなったらもう無味乾燥なもの、御商売そのものが。あじけもそっけもあったもんじゃない。だからその事を忘れんために、私共は自分の家業に本気で打ち込めれる為に信心をする。その事が修行なのだ。この方の行は火は水の行ではない、家業の行というのは自分の家業の行を命と思うてそれに一心に打ち込めれると言うときに、それにそのうち込めれるさらな心を頂かしてもらう。その原動力になるものを、それを有り難いと言う心、もったいないという心。有り難いと思う心、もったいないと思う心で自分、めいめいのその仕事に打ち込んでおる姿こそが、神様をして感動して下さるほどのおかげになってき、そこからおかげが交流しないはずがない。
 学生は学生の本分を創らなければならぬ。百姓は百姓道を守らなければならぬ。商売人は商売人、本気でお客さんへ奉仕するところの御商売になっていかなければならない。それが楽しみ、それが自分の生命である。それが自分の生きがいである。そういう姿にみんながほれぼれとした、私は感動をです、与えないはずがない。有名な例えばなら舞台人達が、いわば舞台に立って一生懸命の時にです、それこそあの広い例えば歌舞伎なら歌舞伎座あたりのですね、中にもうせきひとつ聞こえなくなってくる。そのすばらしい芸能が披露される時です、もうそれこそ(ぎわ? )ですね。(ぎわ? )というか、とにかくその溜息がでてくる訳なんですね。あんまりすばらしいから、その溜息がですね、波のようにこうやって押し寄せてくる。そういうそのすばらしい感動と言うものがある。私は例えばです、この頃開教式の時に私はあの立ってからしばらくご挨拶をした。昨日、二、三日前でした。竹内先生の奥さんが見えてからです、もう私共裏で御用させて頂き寄りましたけれども、親先生がお話なるげなと云うてから、もうみんなが勝手におるものみんな襟を正してお話頂いた。御広前におって今まで眠っておったものもしゃんとした。板張りに立っとったのがみんな座りなおした。そしていわば私の下手なお話であるけれどもそれを頂こうとする。そして万場のものがです、本当にもうそれこそ有り難い、このまま皆さんがお家に帰ったら( )くらいな有り難そうな顔しておる。ひとつの(ぎわ? )が私に伝わってくる。感動がそれは私はお話はなら下手であってもですよ、私がこの事に生きがいを感じ、この事に一生懸命なっておる。それがそこで五分でも十分でも披露される時に、そう言うようなことになってくるのですよ。お説教させてもらいよるとにですよね、もうそこにも居眠りしとるむこどんむこみとっとがおるといったような事だったら、もうこの人のお話は本当に生命の無いお話であると言うことを私は云うても良かろうと私は思うですね。
 それがなら私自身が本当に信心に打ち込んでおることだからなんですよ。だから皆さんはです、皆さんのその本当にそれぞれの御用にです、打ち込まなきゃいけん。その打ち込み方がです、そんならいつもそう言うような感動的な打ち込み方が出来りゃいいけれど、なかなかでけんといわずにです、根本であるところのいわゆる心の中に有り難い、もったいないを頂かしてもらう信心をです、本気でさしてもらい、頂かしてもろうてその心で御商売にあたり、お百姓にそれぞれの御用にあたって然も、それが私の生命であると言うような事になって来たときです、私はみんなの感動を呼ぶことが出来る。神様にも喜んで頂くことが出来る。自分自身も又働くことに対して疲労ではなくて有り難いというものだけが残るようなおかげになってくるのじゃなかろうかと思う。
 この方の行は火や水の行ではない、家業の行。家業の行をただしておると言うことだけが行じゃない。そういう内容をもって初めて私は家業の行ということが云えるのじゃなかろうかと思うですね。             どうぞ